軸がずれる
からです
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よくわからないですよね。
例えば同じ小説でも1回目に読んだ時と2回目に読んだ時では「おや?」と「気になる部分」が違ったりしますよね。
それは「全体を見ている」からなのです。
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以前の記事(ブログ統合による再投稿)
そして
でも書きましたが「読書」も「他の著者の作品」や「異なる芸術」と組み合わせることによって読み込みの「深さ」が自分自身の中に湧き出してくるのです。
それに対して弊害になるのが「過去に引いたマーカー」ですね。
その「引かれたアンダーライン」によって「重要な部分の固定観念」から脱却する事が難しくなり、どうしても「変わらない視点から」しか見られなくなります。
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オレは「気に入った(気になった)本」は4回くらい「再読」します。
- 文章を読む
- 行間に潜められている「ト書き」を想像しつつ読む
- 著者の裏の意図を考えながら読む
- 自分に投影(主人公とは限らない)しながら読む(主人公を変えて再読を続ける場合も多い)
これが1度の読了で終わる時がある。
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再び書くけれど、これを阻害するのが「過去に引かれたアンダーライン」である。
しかしながら近年は「電子書籍デバイス」を使っているので、ポイントになる部分を「ハイライト」として残す事がある。
それにより「要点チェック」が楽になる。
決して「紙の本」を否定はしない。
「紙の匂い」「紙の質間」「目に見える進捗状況」あげればキリがないが、なんせ「電子書籍デバイス」を使うと「KindlePaperwhite]「iPhone」「iMac」で同期してシームレスに読めるので、その時の気分とか状況(外出時など」に合わせて使い分ける事ができる。
話がそれた。
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要するに「常に新鮮な気分」で読みたいので「マーカーは引かない」というところに落ち着く。
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メモを取らない
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これは映画「マルコムX」の影響が大きい。
マルコムがまだ「ワル」だった頃ボスから「メモを取るな!それが物的証拠になる!(少し言い回しが違うかも)」とのやりとりからの影響は否めない。
それを「演奏」置き換えると、今のおれは「ガクスイ」ではなく「即興対応性音楽」をやっている。なのでその時その時の「他のメンバー」「観客」「自己内の感覚」で「重要なポイントにおける表現方法・重要な部分」が変化する。
これも「メモ」が弊害になる。
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まぁ、偉そうなことを書き連ねたけれど、結局は「面倒」というところに着地するという説もある(^_^;)