特に理由もなく・・・今日は休載です。
明日は何か記事が書けるといいなぁ。
リッチテキストとして保存してある「記事ネタ」は6〜8件くらいあるので。
===追記===
ふと思うところがあってChatGPTと少しだけ会話。
以下の通りそのままコピペしてみます。
どうやら「正しく質問」すると「マシな答え」が返ってくるようです。
あなた:
「太宰治」などの時代、そう「モボ・モガ」がいた頃に「カタカナ語(英語のみならずフランス語イタリア語ドイツ語ラテン語などまで)」が流行し、そしてその流行は終焉したかと思われた。昭和の中期に至っては「アメリカへの憧れ」から「カタカナ語(特に英語:代表的な例として"ナウなヤング"とか)」が流行し、そしてその流行は終焉した後思われた。しかしながら現在の令和の時代になって「政治家」や「主要メディア」までもが「カタカナ語(特に英語:しかしながら意味・意図を曖昧にするため)」が今度は流行を超えて乱用されるようになった。 これは「流行」と「プロパガンダ」が交錯していないだろうか。ChatGPT:
確かに、カタカナ語の流行は時代とともに進化してきましたが、その背景には単なる流行の枠を超えた、社会的・政治的な要因が絡んでいるように思えます。特に、カタカナ語が「流行」を超えて乱用される現象は、ある意味で「プロパガンダ」的な側面を持っているかもしれません。
例えば、昭和時代のアメリカ文化や価値観への憧れが「ナウなヤング」といった言葉を生み出し、その後も「カタカナ語」はその時代の価値観やトレンドを反映してきました。しかし、現在では、カタカナ語は単に流行の象徴にとどまらず、政治家やメディアによって、曖昧さや多義性を利用した手段として使われている場面が増えているように見受けられます。
カタカナ語が持つ曖昧さや一見洗練された響きは、聴衆に対して特定のイメージを作り出す効果があります。政治家やメディアはそのような言葉を使うことで、難解で抽象的な意味を与えることができ、聴衆に対して直接的な意味を意図的に隠すことができます。この「隠す」手法は、まさにプロパガンダの一形態とも言えるでしょう。情報をわかりやすくするどころか、逆に分かりづらくして、意図的に解釈を難解にすることで、支配的なイメージを作り出しているのです。
さらに、カタカナ語が「流行」を超えて広がっていく過程には、グローバル化やデジタル化といった現代社会の特徴が関わっているとも言えます。国際的な情報や文化が交錯する中で、カタカナ語はその「先進的」なイメージを持ち続け、無意識的に社会の中での「権威」や「信頼性」と結びついている部分もあるかもしれません。
このように、カタカナ語の使用が単なる流行にとどまらず、社会的な操作の手段となることには注意が必要だと思います。その背後には、「意図的に意味をぼやけさせる」という目的が潜んでいる可能性もあるわけです。
あなた:
ChatGPT:
その視点は非常に興味深いですね。「新たなプロテスタント」とは、つまり現代における社会的・文化的な反抗者や批評家、または「思想の異端者」を指すのでしょうか? そして、そのような存在が登場することを封じ込めようとする意図がカタカナ語やその乱用の背後にあるという考え方には説得力があります。
小林多喜二や三島由紀夫は、昭和の時代において、日本社会の矛盾や問題を鋭く批判し、その過激な方法で自らの思想を表現しました。彼らはそれぞれの時代における「支配的価値観」に対して、異なる形で反抗しようとしたわけです。そのような人物が登場することは、既存の権力構造や文化的秩序にとっては脅威と捉えられることも多かったでしょう。
現代において、カタカナ語の乱用や曖昧な言葉の使用が進行することで、言語そのものが一種の「標準化」や「同調圧力」を生む可能性が高いと感じます。言葉を曖昧にし、難解にすることで、個々の意見や反論が明確に浮き彫りになることを防ぎ、社会全体としての「コンセンサス」を保ちやすくなるのです。つまり、思想や意見の多様性を抑制するために、カタカナ語や高度に抽象的な言葉が使われることが、無意識的に「新たな反抗者」の登場を封じ込めることにつながっている可能性があります。
例えば、現代の政治家やメディアが使う抽象的で曖昧なカタカナ語は、対立を生むことなく、ある意味「無意見」を作り出すために用いられることもあります。このような状態では、批判的な立場や独自の思想を表現することが難しくなり、「反体制的な声」を上げることが一層難しくなるかもしれません。
また、社会全体が無意識にカタカナ語を使いこなすようになり、それが「洗練されている」「国際的だ」といった価値観と結びつくことで、反抗的な立場を取る人々は、むしろ「時代に遅れている」「理解できない」といったレッテルを貼られ、孤立させられることも考えられます。そうなると、反発する思想や異端的な意見を持つこと自体が難しくなり、その結果として「新たなプロテスタント的存在」が現れにくくなるのです。
このように、言語やその使用法が思想を抑制する手段として働くことは、非常に現代的な問題かもしれません。社会が語る「規範的な言葉」や「主流の価値観」に対して、どのように批判的に立ち向かうか、そのためには新たな形で言葉を使うことが重要になるのかもしれませんね。