カオスな多・他視点考察集(旧MAIN BLOG)

「クロスオーバー(否音楽)的関連性(横断複合関連性)」視点からの「アート全般」についての考察集(否カルト)

「カタカナ語乱用」を批判しつつ敢えて「カタカナ語」を使う理由

最近は「意味・意図を曖昧にするため」とか「インテリぶるため」に「カタカナ語」が乱用されていると感じています。

しかしながらオレが敢えて「カタカナ語」を使うときには「一定の原則的法則論」があるのです。

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オレがブログやSNSにおいて「敢えて使うカタカナ語」は「モボ・モガが好んだ文豪たちとその前後の文豪たちが意図的に使ったカタカナ語」になります。

あ、決して「インテリぶっている」わけではありません

「カタカナ語」によって「時代」や「情景」が思い浮かびますよね?例えば「モボ(モダンボーイ)・モガ(モダンガール)」という「カタカナ語」からは「大正ロマン」が浮かび上がってきますよね?

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自分でも思いますが、オレの5本のブログには難解で理解が難しい考察がかなり多いと思うのですが、その辺りはこの「オレ的カタカナ語の使い方の原則的法則論」を理解していただける方なら理解していただけると信じて書き続けているわけでもあります。

先日書いた「ミニマリスト」という「カタカナ語」もそうですし、オレ自身を「カオス」と表現するのも『オレ自身が「ニヒリスト」と「リアリスト」という相反する面を共に持ちつつ「ミニマリスト」として時に「シニカル」な考察だったり「アイロニカル」な考察であったりする「カオスな総合アーティスト」と名乗る』というのは「日本語化が不可能(10倍ぐらいの文字数が必要になる)」なのですよ。

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相変わらず難解じゃん(^^;;

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基本的にブログもSNSも「自己満足の極致を求めて自己のアイデンティティの確立」を目的にしているので、それがたとえ「投げっぱなし」の状態になってしまっても構わないと思うのです。

平均的常識(一般常識というものは実は存在しないという持論からくるオレ的造語)よりも常識をわきまえた上で責任を持って自論をぶちまけていると自覚していますから。